ここに互いの心を語り続けた友がいた。
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宮沢賢治・保阪嘉内 「花園農村の理想をかかげて」

二人の出会い

賢治と嘉内が出会ったのは大正5年4月、嘉内が入学した盛岡高等農林学校の寮である。賢治と、義務教育制度の変更のため1年遅れで入学した嘉内とは、文芸・宗教・自然科学など共通の話題を通じ急速に親しくなる。嘉内との交友により、賢治は作品を発表する楽しさを知り、文芸誌を制作するに至る。

アザリア同人誌

1917年(大正6年)7月1日、盛岡農林学校で「アザリア」という名の同人誌が産声を上げた。中心となったのは賢治・嘉内・小菅・河本の4人である。折しも、学校の植物園にアザリアが咲き誇っていた頃でもあり、小菅か嘉内が「アザリアはどうだ?」と提案したのが誌名として採用された。
友との別れ
1921年(大正7年)3月13日、盛岡農林高校の掲示板に「保阪嘉内 除名」が貼り出されていることを、嘉内は賢治から手紙で知らされた(ただし学校からは嘉内には何の通知もなかった)。除名の理由は明らかにされていないが、賢治の書簡によれば「アザリア第5号」に掲載された内容が原因で、学校側から危険思想の持ち主との疑いをかけられたのでは、と。その後「アザリア」は6号で終刊となる。

賢治からの73通の手紙

1937年(昭和12年)、嘉内はこの世を去ることになる。彼の手文庫の中には手紙「第一 小菅健吉編」58通、「第二 河本義行編」51通、「第三 宮澤賢治編」73通が、いずれも草色のスクラップブックに貼り込まれ、保管されていた。最期の時まで三人との友情を大切にしていた、何よりの証である。

二人の銀河鉄道とその後

嘉内の中学時代のスケッチの中には、賢治の童話につながるものがある。ハレー彗星のスケッチには「銀漢ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ」の言葉があり、これは「銀河鉄道の夜」を連想させる。また、風神の祠「風の三郎」のスケッチからは「風の又三郎」、といった具合である。 さらに盛岡で、嘉内が賢治に語った中学時代の思い出話なども、童話の発想に一役買っていたかもしれない。

(保阪嘉内) ここに互いの心を語り続けた友がいた (宮沢賢治)
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